別に同情して欲しいとかそんなつもりじゃないけれど、ただ文章として残しておきたいので、高校の頃の話をしようと思う。
高校が嫌いだった。本当に大嫌いだった。好きなところなんて一つもなかった。あぁ嘘、文芸部は好きだったけど年に数回しか活動がなかったし、まぁ実質全部嫌いだったと言っても差し支えない。
一年の頃は騙し騙しやっていけた。
中学までは正直成績が良かったから、いつの間にか「見下し」込みで人間関係をやる癖がついていた。それが突然ほぼ学年最下位みたいな成績になって、誰からも「見下される側」になった。あらゆる人間関係がストレスだった。それでも6人グループでお昼ご飯を食べ、吹奏楽部というそこそこ大きな部活で部員たちと仲良くした。我ながら偉いと思う。
授業中に異様な眠気に襲われた。当時は私に根性が足りなくて、他のみんなはこの眠気に打ち勝っているのだと信じて疑わなかった。私がダメ人間なのだと思っていた。後にそうではないことが判明するのだが、とにかく当時はそう思っていた。
高校の授業なんて、そりゃ1日に2コマも寝てればあっという間についていけなくなる。特に数学がダメだった。教科書だけでは理解できないから先生が授業で説明しているのに、その授業が聞けないんだから。
一年生の頃は、それでもどうにかカバーできていた。
しかし高校二年の夏で限界が来る。
高校の外にも要因はあったし、直接的な原因はむしろそっちだった。当時付き合っていた彼氏のことで、私は自分の中の優先順位と自己肯定感のバグを起こしていた。分かり易く言うと、メンヘラを拗らせていた。
何につけても彼氏を基準に考えていた。彼は頑張っている、それなのに私は……とか。一年の時点で結構メンタルはボロボロだったから、自分の至らなさを一々彼氏と勝手に比較しては死にたくなっていた。あとは、彼氏の周りに他の女の子の影が見えて不安になって、痩せなきゃと思って吐くまで運動したり、全然人と会えるメンタルじゃなくても彼氏に呼ばれれば身支度を整えてお洒落して会いに行ったり。
なんか、分かるでしょう? そういうタイプのメンヘラ。
そもそもその彼氏とは爛れた関係で、付き合って別れてを繰り返して、その時は既に数回目のお付き合いだった。彼氏も彼氏で周りに女の子の影をチラつかせてくるし(今だから言えるけどあれは絶対ワザとだったと思う。分からんけど)、私も私でちゃんと愛されてる実感が欲しくてわざと心配させるような言動を繰り返したり、ツイッターのアカウントを急に消してみたり、なんかそんなようなことばかりしていた。
所謂「試し行為」というやつだ。メンヘラ伝家の宝刀である。だから要は、そういうタイプのメンヘラだったのだ。
当然周りには盛大に迷惑をかけたし、そんな私に呆れて離れて行った人もいた。すごく正しい判断だと思う。むしろ、当時付き合いがあった人で今も仲良くしてくれてる人があまりにも聖人。徳を積みすぎでは?
とにかく高校二年の夏にそんな過ちを繰り返しまくり、秋になる頃にはやっと冷静に自分のしたことが分かってきて、失ったものの大きさにも気付いた。ちなみに夏の時点で人間関係を幾つか破壊し、それに伴って身内のコミュニティを2個くらい破壊していた。メンヘラ破壊神。
だから順当に死にたくなった。というか当時は「死ななきゃならない」という、激しい義務感みたいなかんじだったと思う。これが人生で明確に抱いた最初の希死念慮で、今のところ一、二を争う激しい希死念慮だった。
ちゃんと知識があればここで死んでいたと思うのだが、何せ初めての希死念慮なのでどうすれば死ねるのかよく分からない。色々調べているうちに、どうやら確実さを求めるなら死ぬのもそう簡単ではないことが分かってくる。飛び降りも首吊りもダメ、薬は市販薬じゃムリ、カフェインは耐性があるのでたぶん未遂に終わるし、電車は親に損害賠償が行くらしい。どうなってんだ日本。終わらせる権利もねぇのか。無理じゃん。
というかその時の最も大きな動機が「これ以上周りに迷惑をかけてはいけない」だったから、死んでも迷惑がかかることが分かってどうしようもなくなった。
結局その場では「まぁあと4年くらいしたら死ぬか。最低限迷惑かけたくない人との人間関係は4年以内に切って、それから死のう」と決めて、とりあえず生きとくことになった。
とはいえ限界であることに変わりはなかった。
高校は相変わらずあらゆることが上手くいかなかったし、努力してもほぼ最下位からは抜け出せず、二年になって苦手な理系科目が増えたことでむしろ状況は悪化し、2点とか8点とかそんな信じられない点数をざらに取った。次の単元こそ授業で起きていよう、とどんなに決意を固めても異様な眠気には抗えず、人間関係が苦痛だから友達に教えてもらうのも苦痛で、そもそも全部の単元が分からないんだから全部友達に教えてもらうわけにもいかなくて、自分では理系科目のことなんか何一つ分からないし、八方塞がり。もう一回頑張ろうと何度心を持ち直そうと、その度に心を折られ、寝ているもんだから先生には怠けていると思われ怒られ、学校にいること自体が苦痛になった。藻掻いても藻掻いても報われない、地獄。
一刻も早く帰りたい気持ちから、吹奏楽部に顔を出さなくなった。
高校のことと彼氏関連のことで完全にメンタルをやられていた。彼氏とのことはこれで結構ライトに書いていて、本当に、心の底から、呪いのように大好きだったのだ。文章じゃ分からないと思うけど。
鉄塊を想像してくれたらいい。その重さの感情をいちいち揺さぶられて引き摺り回して叩きつけて、って何度も何度もやっていたら、傷だらけになって壊れるのも分かるでしょ?
病院に行けば病名がもらえたと思う。まともに人間と関われる状態じゃなかった。毎日逃げるように学校から帰ったし、朝は起きられず遅刻して学校に行くようになった。家に着いた後はしんどい気持ちを抱え込むのに必死で、課題や復習どころか微動だにせず、というかできず、辛うじてツイッターで気持ちを吐き出すことだけができていた。その時に作ったアカウントでメンヘラ界隈と繋がりを持って、メンヘラカルチャーに染まっていった。家にあったカッターは信じられないくらい切れ味が悪くて、血なんか一滴も出ず、手首には情けない蚯蚓脹れだけが残った。
話は変わるが、そんな折に私は痴漢に遭った。
当時の私は眼鏡をかけてろくに髪の手入れもしない芋臭い高校生だったから、痴漢被害に遭っても声を上げなさそうな格好のカモだったのだろう。押し潰されるような満員電車の中で尻を触られ、ブレザーの中をまさぐられた。
──人肌の温度だ。
そう思った。
学校でも家でも誰も肯定なんかしてくれないこの人生で、その人肌の温度が私には肯定に思えた。触れるだけの価値があるものだと教えてくれた気がした。
私はすっかりそれの虜になった。
「待ち合わせ痴漢」という文化がある。掲示板で相手を募って、事前に相手を取り決めた上で、電車に乗って痴漢をするというものだ。私がその掲示板に辿り着くまでにそう時間はかからなかった。毎日のように相手を募っては痴漢をしてもらう、そんな日々が続いた。スカートの上から始まり、ブレザーの中にその手が伸びて、スカートの中、そして誰にも許したことのない箇所まで。私はその温度で自傷と自慰を繰り返した。
さて、メンヘラ界隈と切っても切り離せないもの、それは発達障害だ。ADHDやASDの生きづら人間が無理やり健常者に合わせて頑張ってきた結果、メンタルを病んで……という一連の流れはもはやお約束。だからメンヘラ界隈には発達障害の人間がめちゃくちゃ多い。
そしてメンヘラ界隈のTLを眺めているうちに、私はとうとう気付きを得たのだ。
──ワイ、ADHDや。
前々からちょっと怪しいとは思っていたのだ。敢えて確かめるようなことはしなかった。しかしメンヘラ界隈を見てこれはと思い、セルフチェックを漁ったり有識者のツイートを漁ったりしているうちに確信に変わった。ワイはADHDだったんや。
発達障害って、当事者になってみると結構ショッキングな響きだと思う。だって「障害」だよ? 「生まれつき脳に欠陥がある」んだよ? 言っちゃえば、お前は生まれつき劣等人種だとでも言われたようなものだ。差別発言とかじゃない、これはマジな話だ。発達障害は素敵な個性とかぬかす奴は全員殴る。お前も当事者になってみろよ。二度とそんなこと思わねぇからな。
だから物凄くショックだった。自分が劣等であるという事実よりも、哀れまれ下に見られる対象であることが嫌だったし、それが嫌な自分が嫌だった。この期に及んでまだ見下されることが嫌いなのだ。んで、また病んだりした。
とにかく病院に行こう。そう思った。でもどうやって? 親には言いたくなかった。心配かけたくないとかそんな高尚な理由じゃない、親にADHDという概念を理解させ、最初はたぶん否定から入られるからそれを根気強く説明し、金銭についてケチな親に病院代を出してもらうよう懇願する、そんなメンタルの余裕はもうどこにも残っていなかったからだ。
類友とはよく言ったもので、気の合う古い友達がADHDだった。そいつが金を貸してくれると言うので、私は親が管理している保険証をくすねた。病院に行けるなら有難い話だった。ついでにメンタルに効く薬もくれ。限界だ。
しかし保険証のことがすぐ親にバレて、結局洗いざらい話す羽目になった。予想通り親はADHDの概念を全く理解できず、チェック項目を見て「こんなの私にもある」「こんなのが障害なわけないでしょ」と宣った。そりゃあるだろうな、ADHDは遺伝すんだよ。テメェからの遺伝だわボケ。
それでもどうにか親を説得できたのは、私がこの歳にして情けなくボロボロと泣いてしまったからだ。親は渋々というかんじで病院に行くことを了承してくれた。そして、行くなら自分もついて行くと言い張った。まぁ保護者同伴じゃないと本当はいけないらしいから、それは助かる。
しかし病院への受診が実現するのはなんと翌年の夏。
まずお気持ちクリニックの予約がマジで取れなさすぎること。もう一つは親が仕事の予定を優先して、せっかくお気持ちクリニックの予約を取っても「その日は無理」「仕事入った」ばかりで永遠に病院に行けなかったことだ。
あんたは仕事してて知らなかったかもしれないけどテメーの娘はあのとき本当に限界だったんよ。仕事と娘どっちが大事? 仕事? ふーん。だろうな。知ってた。
そう、つまり「授業中の異様な眠気」、これの正体は発達障害だったのだ。発達障害とナルコレプシーは脳の形(?)が似ていて、発達障害の約半数が日中の異様な眠気に悩まされているらしい。なに私こんなんで今までこんなになるまで悩んでたの? 腹立ってきた。
まぁ、ADHDだと分かったところで状況が改善するわけではない。高校は何も上手くいかないままだし、人間関係は苦痛だし。そんなこんなで三年生になり、あと一年だしどうにか耐えて卒業しよう……そう思っていた矢先、学校側から1枚の紙を渡された。
「念書」である。
何かというと、「オメーの態度や成績は目に余るから今後改善が見られなければ卒業させてあげないよ」という最後通牒みたいなアレだ。まず成績がそもそもアレだし、授業中の睡眠、度重なる遅刻、二年の最後の方は欠席することも多かった。制服を着てスクバを持って学校最寄り駅に行くところまではするのだが、どうしても行きたくなくて駅のトイレに篭っていたらもう4限、なんてことが多々あって、4限ならもう帰るかぁってなるじゃん。うちは真面目な学校だったから、そもそも遅刻するだけでだいぶ浮くのに。4限からノコノコ行くなんて無理。
正直ブチギレたよね。こっちはもう限界なの。一刻も早くこの地獄から脱出させて欲しいの。だいたい私だって寝たくて寝てるわけじゃないんよ。この前診断を受けてそれがやっと分かったところ。こっちは散々悩んでるし去年の夏にはそれですり減らしたメンタルで危うく死ぬところだったけど、あっ責めてくる? 何? 私が悪いんか? なぁ。殺すぞボケ。
ブチギレたので、私は学校に診断書を提出した。
私は御校のこと嫌いだけど、御校も私の事情とか知る由もないよね。教える教える。だから二度と私が怠惰で寝てると思うな。「昨日何時間寝た?」「保健室行けば?」って言ってくるな。7時間寝てるんですこっちは毎日。お前らに7時間って言うために。だってそうじゃないと私が悪いって言うでしょ。
それによっての成績とそれのせいで病んだメンタルのことまでは御校に何も求めんから干渉をしてくるな。頼むわ。
そんな気持ちで診断書を叩きつけた。
しかし学校からは何の反応も返ってこなかった。ウケる。もう廃校しちまえよ。二度と「生徒との距離が近い、家族のような学校」を名乗るなよ。
診断が下ったということは投薬治療が始まるということだ。
処方されたのは「ストラテラ」という薬だった。これがまたとんでもねぇ薬だったのだ。何が酷いって、副作用がヤバい。激しい喉の乾き、食欲の減退(というか食事が苦痛になる)、動悸、吐き気。それから眠りが極端に浅くなり、一日に2〜3時間しか眠れず、しかもブチブチと中途覚醒しまくる日々が続いた。
人間のストレス解消において食事と睡眠が占める割合は偉大だ。しかしストラテラの副作用によってそれら2つが寧ろストレス源になった今、日常はストレス蓄積RTAと化した。4時間かけて飯を食い、吐き気を抑え、眠いのに眠れず、やっと眠れたと思ったらすぐ中途覚醒し、そんな日々がそう長く保つわけがない。
そんなある日、学校に行く途中の電車で、ストレスから過呼吸を起こした。
三年分のあらゆるストレスが、薬の副作用に後押しされて爆発した瞬間だった。その時の過呼吸をきっかけに一時は薬の服用をやめたものの、別に副作用だけが原因で起こっていることではないので結局薬は再開。これが地獄の始まりだった。
激しい鬱状態に陥り、人とまともに話せる状態ではなくなった。友達に放っておいてくれと頼み、人間という人間の存在がストレスで激しい動悸に悩まされた。毎晩過呼吸を起こした。猛烈な希死念慮に襲われて、死ぬことしか考えられなくなった。
家に着くまで保たず、駅のトイレで過呼吸を起こし、汚い床に座り込んだ時の、手足と脳の痺れと惨めさといったら!
逃避のために始めた自傷行為があった。やり方は伏せるが、自分の意識を意図的に落として、一瞬気絶するというもの。意識がなくなるのはほんの10秒ほどだが、意識が戻る際に強烈な乖離が起こる。つまり、自分が自分であるということも認識できなくなるのだ。一瞬であれ完全に苦しみから逃れることができる。脳に悪影響だとは分かりつつも、私は何度もこれを繰り返した。
人間とまともに接触できる状態ではなかったから、学校を休んで近所のショッピングモールに行った。親は何も知らないし、欠席なんて許されない。今までのことも今の苦しみも何も知らないし、遅刻も欠席も全部無断でやっていた。時間通りに制服を着て家を出て、だいたいは駅のトイレなんかで動悸や吐き気を抑えている間に遅刻、という流れだった。欠席も最初は同じ流れだったが、三年になると「今日は学校行けないな」というのが起きた時点で分かるようになっていた。だからわざわざ電車に乗るようなことはせず、近所で時間を潰していたのだ。
学校を休むと昼食がなかった。学食でしか使えないQUOカードみたいなものでいつも昼食を買っていたからだ。朝は食べない派だったので、学校をサボると1日に1食しか食べることができない。すきっ腹を抱えてフードコートで何時間も暇を潰す。本当に惨めだ。
耐えられなくて、ショッピングモールのトイレで意識を飛ばす自傷をした。人間が死に際に快楽を得るのと同じ原理で、この行為には快楽が伴った。だからこれは自傷であり自慰だった。制服のネクタイで輪っかを作って、トイレの荷物用フックに吊るして。首吊りの要領で首を輪っかに通して、その状態で意識を飛ばすのだ。うっかり死ねればいいのにと祈りながら、平日昼間の誰もいないトイレの個室で何度も何度もそんなことを繰り返した。
希死念慮が酷く、家で首を吊ろうとした。幸い家にはロープがあったし、カーテンレールも都合の良い位置にあって、頑張れば死ねそうなかんじだった。しかしハングマンズノットのやり方がよく分からず、恐らくやり方が悪かったのだろう、椅子を蹴って首を吊ってもすぐ床に足がついてしまう。不器用さ故に、私の自殺は未遂に終わった。
後でフォロワーの方に教えてもらったのだが、この薬は、全ての医薬品の中で2番目に使用者の自殺未遂の報告が多いものらしい。Wikipediaに書いてあった。一応、薬の副作用に「希死念慮」はないことになっているけれど絶対に嘘。何らかの関係はある筈。
自らの意思ならともかく、薬に殺されるなんてまっぴら御免だ。
投薬治療が打ち切られ、代わりに炭酸リチウムという薬が出された。躁鬱病の治療薬らしいが、当時それが処方された意味は分からない。ただ一つ分かっていたのは、大変致死量の低い薬だということ。私は炭酸リチウムの服用をせず、家にこそこそと溜め込んだ。いつか死ねるように。これは私にとってお守りだった。
学校を休んだある日、私はとある駅にいた。各駅停車の電車しか止まらない、寂れた駅だった。各駅停車しか止まらないということは快速電車が凄いスピードで通過するわけで、そこに飛び込めばひとたまりもなく肉の破片になることは分かり切っていた。平日の昼間だというのにパラパラと人がいて、まったく何の用事なのだと思った。
次の快速電車が来た時に飛び込もうと思った。
その日は雨が降っていた。飛び込むにはスクバも傘も邪魔だから、ホームに置いておかなければならない。人の目が気になった。自殺志願者だとバレれば駅員に通報され、親に連絡が行くことは間違いなかった。スクバが邪魔で置いておくというのはままある行為だとは思うが、傘を置いておくというのは不自然な行為であるように思えた。人が少なくなるまで何本も快速を見送ったが、一向に人の気配はなくならない。
未遂に終わり親に連絡が行くことを嫌って、結局その日死ぬことはできなかった。
高校三年の年は文化祭にも体育祭にも行かなかった。週に2、3回学校に行ければいい方だった。家の最寄り駅の近くにコーヒーが200円で飲める喫茶店を見つけて、そこに居座るのか日課になっていた。大学附属高校だったが内部進学できるだけの成績なんてある筈もなく、受験勉強をしなければならなかったが当然そんな余裕もなかった。参考書とルーズリーフを開いてコーヒーを飲みながら無為に時間が過ぎてゆく。案外これが一番穏やかな時間だったのかもしれない。
予備校に通わされたが、例によって授業中の睡魔で授業は意味をなさなかった。参考書を開いてさえいればタダで居座れる自習スペースを利用するためだけに通っているようなものだった。親は教育のためなら金を出し惜しみしない。予備校なんて出欠を取るわけでもなく、私のサボりがバレることもなかった。
ある日、自習室で声をかけられた。
「(本名)さん……ですか?」
中学生の時、塾で一緒だった友達だった。いや、「元」友達、と言った方が正しいだろう。高校二年生の時、その子の高校の文化祭に行く約束をしていた。行くとは言ってみたものの、当時の私にその余裕はなかった。案の定というか、その件でその子はツイッターで私について悪口めいたものを書いていた。その子は私の事情など知らなかったのだから、それは不思議な行為ではないと思う。私はその子のLINEをブロ削していた。文化祭に行けなかったことについて何か言われるのも嫌だったし、人と関わるメンタルの余裕もなかったし、その時期にはそうして切られた人間関係が幾つも存在する。その子もそのうちの一人だった。
そうですと答えると、その子は泣きながら話をした。
中学生の頃、学校にほとんど友達がいなかったこと。塾の授業中、後ろの席で二人でコソコソと喋ったり落書きをしたりしていた時間がその子にとって私が思っていた以上に大切だったこと。文化祭に来なかった時は腹を立てたが、今は怒っていないということ。そして、もう一度友達になってほしいと言われた。
人と関わる余裕なんてないのに。
中学生の頃、私は成績が良かった。その子も成績が良くて、切磋琢磨していた。今の私の惨めな姿や成績を知られたくなかった。つまらないプライドだったと思う。
私は泣いているその子を抱きしめて、私もあの時はごめんね、また友達になろうと言った。人目を嫌って自習スペースの端──自販機なんかが置いてあるスペースに移動していた。その子を抱いて友達になろうと言いながら、私は自販機を見つめていた。モンスターエナジーばかり置いてある自販機を見て、予備校の闇だななどとくだらないことを考えた。
改めてLINEを交換した。私はその子に遭遇するのを嫌って、予備校に行かなくなった。いつだったか忘れたが、交換し直したLINEもブロ削していた。
そしてこんなものは、私の精神の余裕のなさ故に行われた、数ある不義理や不道徳の一つに過ぎなかった。それらが許されるとは、今も思っていない。
しかしそんな高校生活はもう終わり!!
イヤッホォウ!!!!!!!
ハッピーニューイヤー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
Foooooooooooo!!!!!!!!!!!!!!!!
高校!もう二度とお前のこと思い出さないし俺はお前との思い出一切抜きで幸せになる!!!!OB会にも入らないし寄付金もびた一文出さん!!
何が青春だボケ、ぶっ殺すぞ
【おわり】
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