社会不適合者こと私は草が好きである。草と言ってもネットミームの「w」の意ではなく、植物のことである。特に多肉植物──ホームセンターとかで売っているプニプニしたかんじのサボテンの仲間──が大好きで、30鉢近い草どもと生活を共にしている。
草を飼い始めた理由は幾つかあるが、社会不適合者らしい理由を挙げるなら「自殺を思いとどまるため」が大きい。定期的にやってくる自殺の波動に対して、「いやでも私が死んだら誰がこの草を世話するんだ」と対抗をすることができる。また、世話が最悪月に2度程度でも良いのが魅力的で、気が向かない時は草のことは忘れて過ごしても良い。これは気分屋の私には大変ありがたいことだ。
さて、生命と草の話だが、多肉植物は生き死にの概念が曖昧だ。
普通、植物というのは──否、植物に限らない大抵の生命は、「生きている」「死んでいる」がハッキリしている。動物は死んでしまったら、植物は枯れてしまったらそれまでである。一部の稀有な例外を除いて、微妙な状態とかそういのはない。
しかし多肉植物にはそれがある。
例えば多肉植物の根元が枯れたとしよう。普通は死を待つのみとなるが、多肉植物の場合は違う。葉っぱをもぎって土の上に置いておくと、断面から根が出て同じ草が生えてくる。
或いは枯れかけの部分より上を切断して土に刺しておく。すると根が出て同じ植物として再生する。下の部分が健康なら下の部分もまた同じ植物として成長する。プラナリアか?
葉っぱから増えた草が成長し、葉が出たら、またその葉をもぎって増やすことができる。それは最早同じ植物と言えるのだろうか? テセウスの船やスワンプマンのような思考実験みがある。そして多肉植物は交配による品種改良が盛んだが、葉っぱをもぎる方法で増やすと交配前の品種に先祖返りすることがある。しかし病気などはしっかり受け継がれる。謎は尽きない。
そういう生き死にや個体が曖昧なあたり、多肉植物は仏教的な草だなと思う。仏教は「俺は世界だし世界は俺(超意訳)」という某国民的アニメのイジメっ子のような考え方がある。上手く説明できないのだが、全てのものは世界と一体だし、その切り取り方に囚われるのはナンセンス……みたいな。「生」「死」も切り取り方の1つに過ぎず、それに固執する必要はないみたいな。この文章はあまりにも説明下手すぎなので各々ググってくれ。
私は世界を言葉で切り取りまくる字書きなので、そういう仏教の思想とは折り合いが悪い。死んだらそれで終わりだし、人間が作った区分が何より大事だ。そのくせブログタイトルの頭に「人間嫌いの」とつけるくらいには人間が嫌いだ。
しかし他者と関わらないことには世界は広がらない。己だけで完結する狭い見識だけで一生を終えようなんて、そんな愚かなこともない。それに、そのような狭い見識で満足する独り善がりな人間に文章を書く資格などない。まぁ文章なんて大抵独り善がりなものだが、そうならないようにする努力を怠るのは最悪である。
だから私は異なる思想を持つ友として、多肉植物を育てているのだ。彼らはいつだって私に新たな視点と感情をくれる。彼らとの暮らしは、私を成長させてくれるのだ。
ちなみに「仏教的な〜」より後ろは全部嘘。本当は見た目が可愛いから育ててるだけ。あぁ^〜〜〜〜今日も可愛いね〜〜〜〜〜!
余談だけど無限に増殖する草に生活空間を圧迫されているので、子株が欲しい人がいたらあげます。ツイッターにDMしてくれ。
おわり
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